「うーん、行こうか・・止めようか・・どーしよーかなぁ・・」
今朝、目が覚めた時に私が布団の中で葛藤していたことです。
いっけん「仕事?」とも思えますが、いやいや「朝の散歩」のことです。
たかが散歩くらいで「かっとう?」
大袈裟な書き方してますが、私にとって「朝の散歩」は本当に楽しみで、散歩に行けるかどうかの確認のためだけに天気予報をチェックするほどです。
実は、昨日も同じ葛藤。
結局、昨日も今日も散歩に行きませんでした。
体調が優れないとか、眠くて起きれないとかではないし、からだ的にはまったく問題なく行ける状態です。
朝の散歩を始めて数年経ちます。
緑地公園での早朝の散歩は、本当に気分がイイです。
朝陽が木々の緑の隙間からキラキラ差し込んで、行ったことも見たことも無いのに、まるで天国にいて後光がさしているかのような景色に見えるんです。
初日の出で、昇ってきたばかりの太陽に、思わず拝んでしまう気持ちがよく分かります。
こんな気分に浸れ、しかも歩く事で、起きたばかりのギクシャクした体がほぐれるのですから、どれだけ私が「朝の散歩」を楽しみにしているのか。
まあ、散歩への想いはこれくらいにして・・・・
今回は「朝の散歩」の良さをメインに書きたかったわけじゃないんです。
それほど楽しみにしている事なのに「精神的にも肉体的にも出来る状態。自分で自覚している範囲では、やりたくない理由は思いつかない。判らないけど、なんだか、気が乗らない・・・」
そうなんです。
私は、何でも理由を求めたがる。
理由を求めることが全て悪いことでは無いし、その理由が分かれば対策が見つかることもある。
それによって良い結果が出せることもあれば、安心感だって得られる。
ものごとを、何でも頭の中の理論で解決しようとするクセが長年しみ付いているのですが、そもそも人間の感情やこころなんて、理屈や科学では説明できないことが山ほどあるんですよね~。
最初は、目が覚めてから「あれ?なんでだろう・・・」
とりあえず無理にでも行ってみようか、それとも止めようか?と悩みつつ、理由を考えていました。
そして数十分後・・・
「あっ、私、なんでもかんでも、こんなことですら理由を探そうとしてる」
そう気付いた時、理由を求めようとしていた思考が止まりました。
「こんなことばっかりしてたら、そりゃ、疲れるわな~」と、自分で納得。
それと同時に新たにチラッと浮かんできたことが・・・
なんと「実験してみよう!」です。
※これが良いのか悪いのかは別として「この人の(私)発想はこんな感じなんだー。へぇ~・・」くらいに、軽く受け流して頂ければ結構です(笑)
実験計画は、次回の散歩予定日も同じことが起こるのか?
もし起こった場合、
1.無理にでも行く。そして行く前と行った後の「自分の感覚・感情の変化」を観察だけしてみる。
単純に、気持ちの感覚をみるだけ。それに対して良い・悪いじゃなくて「あぁ・・こんな感覚か」・・・と。本当に「それだけ」の観察。
2. そして、再び「気がすすまない」感情が出たら、その感情のまま従って止めてみる。これが何日続くのか・・・。
そして、このまま永遠に「朝の散歩」を止めてしまうのか・・・さすがに、それはしたくない自分がいるから、いい加減どこかで無理に行くと思います💦
さて、どうなるのか?自分でも試してみないとわからないです。
なんだか自分の感情への観察そのものがチョッと面白くなってきました。
今は、もう理由なんか、どーでも良くなってる私です。
もし、誰かがブログに「散歩に行くのに、イマイチ気が乗らない。その気乗りしない理由を数十分もかけて考え続けてる」なんて書いているのを見たら、きっと私は「へぇー、そんなことですら考え込むんだー、この人、生きてくのに疲れるだろーね。きっと大変だねぇー。」って、自分のことを棚に上げながら読んでると思います(笑)
そんなもんですよね。
他人事のように一歩距離をおくと、冷静に楽観的に人のことは見れますからね。
今回は数十分で気付きましたが、昔は、もっと時間がかかっていました。
「いくら考えても答えがでないものは沢山ある」
「そもそも理由なんてないものだって、この世には存在する」
「その時は、わからなくても、ずーーーっと後になってから判明することも数知れずある」
今、思えばナントもったいない時間を過ごしていたんでしょう。
もしかすると、次回の散歩の日、今朝のような「気が乗らない」ことがあったことすら忘れて、今までどおり普通に散歩に出かけてるかもしれません。
記憶力が衰えた寂しさはありますけど、まっ!それなら、それでヨシ!としときましょう!