危ないチャレンジと現実の受け入れ
今朝、起きたら筋肉痛のように体が痛い。
昨日の朝、散歩の帰りに転んだからです。
一昨日は、全国的な寒波で名古屋でも雪が降りました。
私の住んでいる地域は、ほとんど積もらず、屋根や車の上が薄っすら白くなっていますが、道も濡れてるだけで、日が当たりにくい所は淵の方に雪が残ってる。そんな程度です。
私が散歩に行く緑地公園は、坂道を上った所にあります。
この坂道も、淵に雪は残っていますが、それ以外の地面は濡れてる様子。
坂を上がる時に、滑らないかと心配しましたが、少ない雪の上を歩いたら楽に上れました。
公園に着くと、いつも通り老若男女が歩いていたので「みんな坂を上ってこれてるんだ。まぁ、帰りに下るのも大丈夫だろう」と思いました。
散歩が終わり、公園を出て坂道の手前まで来た時です。
坂道は車が2台通れる位の幅で、両端にはガードレールが設置されています。
一瞬、上るより下りる方が滑りやすいので、ガードレールを支えにしながら雪が残っている所を歩こうか・・・それとも、上る時に意外と大丈夫だったから真ん中近くを歩いてみようか・・・と迷いました。
でも「まだ、私はいけるんじゃないか?」「まだ、そんなに弱ってないぞ」と確認したかったんでしょう。
いつもなら行動力に乏しいはずなのに、こんな時に限ってチャレンジ精神が現れてきます。
その気持ちが上回り、車も来ていないので、坂道の真ん中近くを歩くことにしました。
5歩ぐらい進んだ頃でしょうか・・・
「ツルっ」「あ!」「スッテーーーン!」
本当に、この⇩のような感じです。
自分が想像していた通りの転び方。
両手と尻もちをついてしまいました。
地面が濡れてて、所々少しは凍っているかもしれないけど、そこを避ければ大丈夫だろと思っていたら、私が歩いた所は広範囲で凍っていました。
実は自分でも、転ぶかどうかの確率は、何となく半々ぐらいかなという気はしていました。
考えてみれば、こんなケースの時の半々ぐらいの確率って、かなり危険度は高め。
それなのに、なぜチャレンジしてしまったんだろう、もっと他にチャレンジすることがあるだろうと。
自分でも「バカなことをした」と反省しました。
帰宅して母に話すと
「バッカだねーー!」と言われ、ますます自分のバカさ加減に拍車がかかり「言わなきゃよかった」と後悔しました。
ただ、滑った瞬間、とっさに上半身は起こそうとしたので、頭を打つことは避けられました。
「まだ、少しは反射神経あるんだ」と、落胆した中にも小さな救いはありましたが、きっと母に言ったら再び「バカ」呼ばわりされます。
たしかに不幸中の幸いであって、ヘタすればアスファルトで頭を強打していたかもしれないのですから。
帰宅した頃には痛みも治まっていましたが、予想通り今日になって体が痛いです。
きっと自分の中では、たとえ50%の確率でも「まだ、私はいける」と確認したかったんでしょうね。
こんな漫画みたいに派手に転んだのは何十年振りです。
「まだ、大丈夫」と信じたい気持ちはあるけれど、現実を受け入れることも必要だと感じました。
これからは、こんな危ないチャレンジ精神は安易に持ってはいけませんね。
年齢とともに変わる休日の過ごし方
今週のお題「急に休みになったら」
これが1日だけの休みだとしたら?
社会人になって40年近く経ちますが、休みの時の過ごし方は、年齢とともにかわってきました。
これまで働いてきている数々の職場は、自他ともに認めるくらいストレスが溜まる環境ばかりのため、休日はストレス解消が目的。(ストレス解消のため、と意識していなくても、結果的にストレス解消になる行動をしていたのでしょうかね)
これは年齢関係なく一致してます。
18歳~30歳近くまでは、家にいるのが勿体なくて、必ず化粧をして電車に乗って出かけていました。
悪天候で出かけられないと、もの凄く損した気分です。
若いから気力も体力もあり、何かを思いっきり、外へ発散するかのように過ごしていたと思います。
これが、30歳過ぎから現在までは・・と言うと、真逆。
1日しか休みがないのに、わざわざ化粧して電車に乗って出かけるなんて、余程の予定がない限り一切しません。
気力や体力が減ったことも関係していますが、翌日には再びストレスでエネルギーが消耗してしまうのが分かってるので、戦闘態勢に備えるために英気を養うような生活をしています。
朝は早起きして、日頃の高ぶっている気持ちをリラックスするために緑地公園に散歩に行きます。
掃除は30分~1時間弱で済む程度にして、疲れ切ってしまわないようにする。
その後はテレビを観たりして、精神的に落ち着くようにしています。
ただ、エネルギーを温存するためとは言え、あまりダラダラしてしまうと、かえって体がダルくなります。
昼寝は疲労回復や脳のリセットに良いとのことなので、本当は取り入れたい気持ちもあるのですが、理想はせいぜい30分。多くても1時間までですよね。
私は横になると、ついウトウトしてしまうし、それで寝てしまったら2時間は超えてしまうので、出来るだけ昼寝はしません。
たとえ目覚ましをかけても、二度寝、三度寝になり、結局は「あれ?もう夕方?しまった、からだがダルい・・・」と後悔しているので、横になることは避けてます。
そして夕方近くになると、オレンジ色の夕陽をみて、再び癒しを得るために散歩に出かけます。
最後はお風呂にユックリ入り、早めに寝る。
若い頃はエネルギーを放出する、気力や体力が落ちてきたらエネルギーを蓄える。
そんな感じで休日の過ごし方が年齢とともに変わってきました。
ストレスが多い職場で働いていると「急に休みになったら」、心の底から嬉しいし、やっぱり休みの前日の夜が一番幸せを感じます。
記憶力の低下も防げる?よく噛んで食べることの効果。
50代半ば過ぎ。最近はとくに「よく噛んで食べる」ことを意識しています。
以前にもブログに書きましたが、私は子供の頃から食べるのが早い。
私もそうなのですが、一般的に食べるのが早い人は「ひと口が大きい、ほとんど噛んでいない、違う意味で箸が止まらない」という感じだと思います。
「よく噛んで食べる」ことを意識し始めたのは、飲み込む力が衰えて、喉に詰まらせるかもしれないという危険性。とくに餅。
詰まらせるまでにはいかなくても、喉を通る時のタイミングが合わずに咳き込んでしまう。詰まるよりはマシかもしれませんが、これだって苦しいし、涙目になってしまい食事どころではありません。
この「嚥下力の低下」をキッカケに「よく噛んで食べる」ことを意識し始めたのですが、これまでの「早食い」という長年の生活習慣を変えることであり、そんなに簡単なことではなかったです。
長年の習慣は無意識に出来てしまうので、そこに意識を向けて変えていくには「嚥下力の低下」という1つの動機づけだけで継続させるには力不足だったようです。
これは後付けで気付いた事です。
たまたま読んだ「睡眠」に関する本の中で「咀嚼と睡眠」との関係性、「咀嚼と記憶力」との関係性について触れていました。
この「記憶力」と言う言葉。
私にとっての動機づけは「嚥下力」よりも上になりました。
その本で紹介されていたのは、マウスによる実験結果です。
通常、マウスの飼育では固形のペレットを与える。すると、好んでペレットをカリカリ砕きながら食べる。
そこで、通常通りに固形のペレットを与えるマウスと、ミキサーで粉末にしたペレットを与えるマウスとの睡眠・行動パターンの違いを詳細に調べた。
固形食の「噛んで食べるマウス」には睡眠や行動パターンに夜昼のメリハリが有ることが分かり、逆に粉末の餌を与えた「噛まずに食べるマウス」は、夜昼のメリハリが無くなった。
「噛まないマウス」は活動期の睡眠量が、通常のマウスより多くなり、覚醒すべき時間に活発に活動しなくなった。
読んだ本には「睡眠(夜)」と「覚醒(日中)」は表裏一体であり、よい睡眠が無ければ良い覚醒は無く、良い覚醒が無ければ良い睡眠は得られない。
睡眠と同じくらい、覚醒している日中の行動が大切だと何度か出てきます。
睡眠と記憶の関係性が深いことは有名ですね。
そして「咀嚼と記憶」について。
かつては、大人になると神経細胞は減る一方と考えられていたが、実際には大人になってからでも脳内で新たな神経細胞が生まれる「神経再生」という現象が起きており、運動などで増強できると考えられている。
でも、この「噛んで食べるマウス」では、記憶を司る海馬で「神経再生」が起きているのが確認できた。
そして「噛まないマウス」の海馬では、明らかに神経細胞の再生が減っていたという結果。
この本を読んで「ほぉー、そうなのか」と、一応、他でも調べてみました。
すると、よく噛むことでアゴを開けたり閉じたりする回数が増え、顔などの骨や筋肉が動く。(顔のたるみ、ほうれい線などの美容にもイイですね)
これにより血流が増え、脳に酸素と栄養が送られるため、脳細胞の働きが活発になる。
活発になることで反射神経や、記憶力、集中力、判断力などが良くなるとのことでした。
「よく噛んで食べましょう」と言うのは、確かに子供の頃から聞いていました。
聞いてはいたけれど「何となく体にイイから」というだけのイメージでしたし、若い頃は記憶力の低下や睡眠の重要性なんて気にしたことはありません。
そのままズルズルと50代に突入してしまったという感じです。
1つの動機づけでは、長年の習慣である「よく噛んで食べる」ことを忘れがちでしたが、2つ、3つとプラスされたことで今までより意識して「よく噛んで食べる」ことが増えました。
記憶力が良くなる、良くなるとまではいかなくても大幅な低下を防げると思えば「よく噛んで食べる」ことが、そんなに大変なことだと思わなくなってきました。
一生モノの知識で予防医学を実践する
今週のお題「一生モノ」 その2
昨日のブログで一生モノは「ストウブ鍋」と書きましたが、私の「一生モノ」はもう1つあります。
それは薬膳(中医学)の「知識」。
物体としてのモノでは無いのですが、薬膳(中医学)の知識もお金を払って手に入れたモノです。
この薬膳(中医学)の知識が「一生モノ」だと思えるのは、当たり前のことですが、自分の身体と死ぬまで「一生」付き合っていかなければならないから。
現在、私は幸いなことに日常生活が普通に送れる身体です。
生死にかかわる病気をしているわけでも無く、体力は乏しくても軽い運動なら出来るし、記憶力の衰えは実感しているものの少しは覚えることだって出来ます。
ストレス社会で生きていくために適度なストレス発散の行動も必要だし、生活するには働ける身体、動ける身体が必要です。
自分の人生をどのように過ごし、どう終わらせることになるのか?
自分が望むような人生に近づくには、そこに近づくための行動が必要だし、その行動を実行できるかどうかは、脳を含めた身体が土台となるのではないでしょうか。
そして、その身体を管理するのは自分です。
私の「一生モノ」である薬膳(中医学)が得意とする分野は「予防・未病・養生」です。
検査で異常が出てる、病名が判明してる、命にかかわる病気などは現代(西洋)医学で適切な治療を受けることが必要であり、最優先だと思います。
様々な病気へと発展してしまったのには様々な原因があり、例えば人間の身体に負担がかかる生活習慣の積み重ね。病気に行きつく前の「意識しないと」気付けないような身体からのサインの見落としなども多く関係しています。
なぜ、中医学(薬膳)が病気になる前の予防、未病、養生に対して得意なのかを簡単に言うと、中医学(薬膳)の歴史は3000年以上前から。
普通に考えれば、当時は病気になってから治せるものは相当少なかったはずです。
大きな病気になってしまったら治せないからこそ、病気になる前に改善させるという予防や未病に重きを置いていたと考えるのが自然かと思います。
また、「意識しないと」気付けないような身体からのサインに対しても、当時は検査する機械は無いので様々な角度から体を観察し、生理現象を聴取し、患者の訴える自覚症状を重視しながら不調を読み解き、治療をするしかありません。
それでも現在まで受け継がれているのは、数千年という歴史が長い分、臨床してきた人間の数は膨大です。
その間、効果が無いものは淘汰され、実際に効果があるものが生き残ってきた。
このような背景から「病気になる前に予防」する、「検査上は異常無いけれど健康ではない未病」、「健康で長生きするための養生」に力を注いできた医学だと思います。
実際に私自身も、明らかに不調があるのに病院の検査では異常なし。
異常が無いから治療法も無く、何故そういう症状が出ているのかも不明。
その時は多少は症状が緩和されるのでは?という薬を処方してもらうことで終わりましたが、不調があるのに異常が無く、病名も判明しないことの方が不安でした。
それが中医学(薬膳)を勉強したら、この不調に当てはまるものが見つかり、得た知識を使って改善したことがあります。
一生、自分の身体と付きあっていくわけだし、どう人生を生きていくかの土台にもなる身体。
大きな病気になる前の様々な予防を教えてくれている中医学(薬膳)の知識は、私にとってやっぱり「一生モノ」です。
鍋で料理の腕が上がる?一生モノのストウブ鍋。
今週のお題「一生モノ」
私にとって「一生モノ」は鍋。24㎝のストウブ鍋です。
10年位前に楽天でポイントを使い購入。自腹で払った分は5000円ほどですが、それでも「鍋に5000円」は正直高いと思いました。
高いと思いつつ購入したキッカケは、この鍋を使えば少しは料理の腕が上がった様にみえるんじゃないか?と感じたからです。
私は料理はたまにしかしませんし得意ではありません。
ほとんど母がしています。
毎日料理をしていれば「あれ?チョッと失敗したかな?」ということがあっても「たまにはそういう事もあるよね」で終わると思います。
でも、たまにしか料理をしないのに、そのたまにの時にイマイチな出来上がりになってしまうと日頃の成功例が少ないために「やっぱり私には向いてない・・・」と、どんどん諦めモードに傾いていきます。
「たまにしか料理をしない人にかぎって時間のかかる凝った料理を作りたがる」と何かで読んだことがあります。
まさに私がそうです(笑)
自分でも料理のハードルを上げてますね。
今よりも更に料理がヘタだった頃、私が「今日は私が作ろうかな」と言うと家族みんなが「えっ、作るの?」と不安そうでした。
その後の言葉は口には出さないものの「いったい何を食べさせられるんだろう、大丈夫か・・・」と顔に書いてあります。
私が最初に習った薬膳の先生が「料理の腕に自信が無い人は、まずは良い材料と調味料を使えばそれだけでも違う」と言っていました。
確かに少しは腕が上がった様にみえますが、私にはそれでも不十分だと感じたので鍋にも助けてもらおうと思ったのです。
普通の鍋との違いを最初に感じたのは「ラタトゥイユ」を作った時です。
食材を大きめに切って、クタクタになる様には煮込まずに味付けは塩とローリエのみ。
(NHKきょうの料理で紹介されていたレシピです)
それぞれの野菜の味が本当によく分かり、料理全体というよりも食材そのものの美味しさの方が引きたっていました。
明らかに私の腕は関係なく鍋のお陰だと思いましたが、その中の一部には恐らく「この鍋で作ったんだから美味しいに違いない、美味しいと思いたい」ということも頭の中で無意識に働いていたかもしれません。
例えば自分の子供が初めて作ってくれた料理を食べた時。
「この子が一生懸命に作ってくれた」という想いも加味されて、味そのもの以上に美味しく感じられると思います。
自分の想い、または思い込みが前提にあると自分の感覚にも影響することを、このブログを書きながら改めて思い出しました。
料理に限らず「良い、悪い」ともに様々な出来事についても同じ事が言えるのではないでしょうかね。
でも、「ラタトゥイユ」
美味しかったのは間違いないです。
それ以外の料理でもストウブ鍋を使っています。
いまだにイマイチな出来上がりになることもありますが、鍋に助けられつつ昔よりは成功する確率が上がりました。
料理をする私にあんなに不安を抱いていた家族が、現在ではストウブ鍋を準備し始めると「今日は何?」と少し楽しみにしてくれてる気がします。
たまにしか料理をせず、しかも毎回ストウブ鍋を使うわけでは無いので登場回数は少ないです。
使い終わった後は普通の鍋よりひと手間かかりますし、とにかく重さがハンパないので洗う時に腕が疲れます。
それでも買った当時と変わらず今でも機能してますし、まだまだ衰える気配はありません。
あとは、年齢とともに「つい、うっかり」が増えるので、手を滑らせて落とさない事を心掛けるだけです。もし蓋を足の上に落としたら複雑骨折間違いなしですから。
当時は高いと思ったストウブ鍋ですが結果的に買って良かったですし、今では全然高い買い物では無かったと思えます。
(正直、全額実費なら買って無かった可能性高いですが・・・💦)
長い人生の中で「一生モノ」と思えるものは多くありません。
だからこそ、せっかく出会ったものは本当に大切にしないといけませんね。
年末詣: 熱田神宮の澄んだ空気に触れる癒しの時間
ここ数年、恒例となっている年末詣。
昨日、地元の熱田神宮へ行ってきました。
これは⇧以前撮った写真です。
天気予報では昼間13℃とか15℃だったので、暑がりの私は風よけ程度の薄いコートで出かけました。中は綿のTシャツ1枚。
家を出たのが朝9時近くで、熱田神宮へ向かう公共交通機関に乗る場所まで歩いて6~7分。天気も良く「やっぱり、これ位の服装でちょうど良かった」と思いました。
熱田神宮に着いたのが9時半頃。
鳥居をくぐったあたりから空気が違う。熱田の杜と言われるほど緑が多い場所です。
以前、ブログにも書きましたが私が散歩に行く緑地公園とは全く空気感が違います。
私はスピリチュアルなことは分かりませんし、かなり鈍感な方なのですが、それでも違うと感じます。
よどみが無い様な、本当に澄んだ空気です。
そんな空気感を感じた瞬間、「寒い!こんな格好で失敗した!」と。
ゆっくり、のんびり歩いて、澄んだ空気の中で気持ちを穏やかにしようと思っていたのに「寒い!寒い!」と物凄い早歩きになってしまいました。
早歩きをしたせいか、本宮に近づく頃には寒さは和らぎました。
通常、熱田神宮に行く時は人込みを避けるため比較的早い時間に行きます。
そのため、一説には熱田神宮の中でもパワーが強いと言われる「一之御前神社(いちのみさきじんじゃ)」にはお参りできません(熱田神宮内で、最も神聖な場所らしいです)
場所は本宮の裏側にあり、参拝できるのは9時~16時の間だけです。
以前は立入禁止だったのですが、熱田神宮・祭祀1900年記念として2012年から一般公開されるようになったとのこと。
荒魂は穏やかとは反対で、勇猛さや怒りなど荒々しい側面を持つ魂のこと。
なので一般的に「荒魂」は、勇ましさ、向上心、前に進む力、達成する力、これらに関連する願いを叶えてくれると言われているそうです。
今回は9時過ぎていたので、久し振りにお参りしてきました。
この道の突き当りにあります。
これは今回撮ったものです。
いつも年末近いこの時期は、本宮すら人があまりいないのに今年は予想外に人が多かったので驚きました。
ここは一般公開されて10年以上経ちますが、まだ知られていないんでしょうか・・・本宮参拝する人数の割合からすれば少ないみたいです。
それでも昨日は知ってる人達が多かったのか、私の前に何人かの人達が「一之御前神社」の方に歩いていました。
この⇩の写真は以前のもので、私が行く時は大体こんな感じです。
この塀の右側に本宮があります。
そして、今回初めてお目にかかりました。
いつも行くたびに毎回お目にかかるのはこの方達です。
(これも以前撮ったものです)
「へ?どうした?」
恐る恐る近づき過ぎないように近づいてみました。
寝てる (-_-)zzz
そして、こちら⇩が初対面の方です。
(今回撮った写真)
茶色い鶏は「名古屋コーチン」で熱田神宮の「神鶏」だと聞きますが、この白い鶏は何だろう?これも名古屋コーチンの仲間?
家に帰って「白い鶏、顔黒い」と検索したら分かりました。
「烏骨鶏」だと。
これが、あの「烏骨鶏」なんだと初めて知りました。
数えきれないほど行っている熱田神宮で、一度も出会ったことが無かったので、なんかイイことがあるのかな?と少し嬉しい気持ちになったのと、あの有名な「烏骨鶏」を知らなかった自分のチョッと残念な部分とが微妙な感じです(笑)
今年1年は、いつもより熱田神宮への参拝の回数が少なくて、この年末詣で2回目です。
いったん足が遠のくと優先順位も高くないので、あれよあれよと先延ばしになり、気がついたら例年より少ない参拝数となりました。
澄んだ空気に触れることで、少しの時間でも頭の疲れが和らぐような気分転換になります。
日々、やることの中で優先順位は高くないけど、自らそういう時間をあえて作ることも大切だと思いました。
接客業の辛さと救われる瞬間
私はこれまで販売や営業など、人と接する仕事に就いていたことがあります。
長く接客業に携わったことがある人なら、クレーマーに遭遇した経験はゼロではないかと思います。
どう考え直してもこちらに非が無いのに一方的に怒鳴り散らす人。
人格否定なんて普通です。
こちらが言い返せないという立場もあるから、相手に言われっぱなし。
理不尽さに腹立たしさもあるけど、それ以上にやっぱりへこむし傷付きます。
次のお客様のこともあるから表面上は何事も無かったかのように振る舞おうとしますが、平常心ではいられないしテンションは下がったままです。
そんな精神状態の時に別のお客様から笑顔で「ありがとう」と言われると本当に救われた気持ちになります。
お客様から怒られて傷付き落ちこんでいる時に、やはりお客様という同じ立場の人から笑顔で「ありがとう」と言われる。
日頃のお客様からの「ありがとう」も確かに嬉しいのですが、こういう時の「笑顔でありがとう」は私にとって言葉の重みが全く違いました。
どん底にいる私を救い上げてくれたようで、本当に「お客様は神様」だと思ってしまいます。
笑顔で「ありがとう」と言って下さったお客様にとっては、買い物をした時にお礼を言うのはいつものことで特別なことではないかもしれません。
もちろん私がその前に酷いことを言われてへこんでたなんて知るはずもないです。
店側の人間の精神状態を考えながら買い物をしているわけでもないし、そのお客様は普段通りのたったひと言の「笑顔でありがとう」だったかもしれないけど、言われた方の私としては本当に救われたのです。
でも、この時の気持ちをずっと持ち続けられるか?と言われると、日にちが経って平穏な日常に戻れば忘れてしまいます。
今は販売の仕事から離れていますが、なぜかこれらの事を最近ふと思い出しました。
せっかく救ってもらったのに、じゃあ自分がお客様の立場になった時はどうなのか?
店の人といくつか会話をして買い物をした時には少し笑顔でありがとうと言えるけど、全く会話の無いスーパーのレジの人やコンビニのレジの人にはどうなのか?
たまに「ありがとう」と言う時はあるけど笑顔は無い。無表情で無言の時もよくある。
いや、そっちの方が多かったかも・・・。
反省しました。
私を救ってくれたお客様たちも、救おうと思って「ありがとう」と言ったわけではないし店の人がいつも落ちこんでるわけでもないです。
だけど、少しの笑顔と「ありがとう」で損するものでもない。
満面の笑みを浮かべてテンション高く言う必要は無いし(逆に怖い💦)
大したエネルギーも使わない。
無表情で「ありがとう」と言うと機械的な「ありがとう」になってしまいます。ほんの少しの笑顔で「ありがとう」と言った方が自然に相手に伝わりやすい印象になると思います。
立場は店員とお客様だけど、その前に人間ですから。
ほんの少しの笑顔と、たったひと言の「ありがとう」でお互い僅かでも気分が良くなればそれでイイんじゃないですかね。
最近私も忘れずに言えるようになってきました。