頭の使い方を変えてみる・・・。
頭が回らない時。
頭の中の回線コードが、いつもなら差し込むべき場所に刺さっていて、一応はスムーズに流れているけれど、その中の2~3本が劣化しているか、別の所に差し込まれ電気がスムーズに流れていない様な感じですかね・・・・頭が働かないって時って。
そういう時は、同じ頭の使い方をしていても、思考が回らず思う様な方向に進まないから、強引に進めても更に劣化が酷くなる。
だから「今の状態で、これ以上続けていてもムリ、ムリ!」というサインだと捉えて、私は別の頭の使い方をしてみます。
もし、使い方の問題ではなく、頭の全体疲労の時は、完全に何もしません。
また、絶対的な期限が迫っているのなら、一旦、頭を休めるために瞑想(マインドフルネス)をします。
そこまででは無い場合です。
例えば、無の状態から何かを生みだすとかの頭の使い方をしていて、なかなかその何かが湧いてこず、これ以上しぼり出せなくて煮詰まったような場合・・・・
私は、読書に切り替えます。
全く関連性がゼロの物では無くて、視点は違うけど少しでも繋がりがある本を選びます。
少し繋がりがある物を、あえて選ぶという方が正しいかもしれません。
もちろん、過去に読んだものでもイイんです。
どちらかと言えば、その方が多いでしょうね。
そして、目が疲れて、体が固まって来たら、少し運動をする。
体がほぐれて、気の流れも良くなるので、運動している最中にフッと煮詰まっていた一部が浮かんでくる事なども意外とあるんでよ。
「何かをしていないと気が済まないのか!」と言われれば「いいえ、そんなことはありません!」とキッパリ否定は出来ませんが、常に何かをしていないと落ち着かない様な人間でもありません。
ただ・・
「時間は無限じゃない」ことを感じはじめた年頃なだけです・・・。
健康管理のためにも「自分を観察」
「自分を知る」「自分を観察する」と聞いて、こころとからだ・・どっちのイメージが浮かぶでしょうか?
ストレス抱えている精神状態が、悩みの大半を占めているなら、こころ。
からだの不調が、頻繁に現れている状況なら、からだのこと。
私の場合、こころの方の内容のブログが多い気がしますが、今日は、からだの方の「自分を知る、観察する」についてです。
例えば、
健康やダイエットを目的として、食生活で何かを摂り始めたり、セーブしたり、または運動を始める・・・美肌を目的として、新たな化粧品や美顔機器を使い始めたり、肌に良いと言われる飲食などを取り入れる。
こういう時は効果が有るかどうかが気になるから、日々の観察はしてるし、その部分への注目度も高く、自然と意識が向きますよね。
では、からだの不調が続くとか、以前と比べて体調不良が多くなった場合。
どこが悪いのか、何かの病気なのか?何が原因なのか?
もちろん気になるから病院に行きます。
それで対応出来る分は指示に従うし、生活習慣で必要なことが有れば、可能な限り頑張ります。
あくまでも「可能な限り・・・」です。
この時の私は、自分の不快な症状が改善しているかどうかに意識を向けて、自分のからだを観察しています。
そして、良くなることや再び不調にならないために、これから何をすればいいのか?と、今後のことに重点を置いて目を向けます。
でも、途中で気づきました・・・。
どんな時に私は体調不良が現れているのか?現れることが多いのか?
現れている不調の症状自体は、似た様なタイプのものだとしても、人それぞれの体質や状況、環境は違うので、不調が現れやすいスイッチも他の人と同じとは限りません。
また、若い頃は大丈夫でも、年齢と共に体は変化していきますから、これも同じとは限りません。
疲れてくると出やすい人もいれば、食生活に偏りがあった、便秘が続いている、睡眠不足、体を動かす事が殆ど無い、イライラしてることが多い・・・・
チョッとした統計をとったり、よくよく振り返ったり観察すると、やっぱり思い当たる点は出てくると思います。
たしかに色んな要因が重なりあっているので100%ではないのですが、私の場合、不調のスイッチが入りやすいのは睡眠不足の時が多いと気づきました。
そこで、少-------しずつ早寝を始めて睡眠不足にならないように生活を変えたのです。
やはり、不調が現れる回数は減りました。
これ、本当は体調が良い時にも同じことが言えると思うんです。
最近、よく野菜を摂ってるとか、運動しているとか、しっかり寝てるとか、快便とか、ストレス発散出来てるとか、趣味が見つかって没頭しているとか・・・・人によって様々です。
からだだけに限らず、調子が良い時や、物ごとがスムーズに進んでいる時は、悪い時に比べて見直しする機械は減るでしょう。
解明出来る、出来ないは別として、悪いことにも原因はあるけど、良いことにも原因はあるんですよね。
目的があり、それに対して何かを始めたことへの経過の観察だけではなく、起こっている現状の振り返りの観察をすることで、さらに自分のからだを知ることになる。
自分を知れば、自分のからだに見合う行動を取り入れられるのですから、健康管理にも役立つと思いますよ(^_-)-☆
この歳になって思う「ご近所付き合い」
煩わしいと思うのか・・有難いと思うのか・・・。
10代後半~40歳くらいまでは、煩わしいと思っていましたが、40歳過ぎ~現在では、有難いと感じています。
現在、私が住んでいる家は祖父母の代からなので、第二次世界大戦の前になります。
ご近所には、同じ時期から住んでいる家族も、まだまだ沢山いらっしゃいますから、私が生まれた時から、ずーっと知っている人達が多いんです。
だから、子供の頃に外で遊んでいて近所のおとな達が通りかかると、お互いが声をかけあって気軽に話をすることが当たり前。
近所の子たちともよく遊び、まだ純粋なこころを持っていた子供目線の私には、単純に近所の人達との付き合いは楽しいものでした。
きっと、町内のおとな達が、子供たちみんなを自然と見守っていたんだと、今となっては思えます。
ですが、大きくなるにつれ近所の目が、見守りではなく、監視されているように感じて、以前は気軽に会話をしていたのに、いつの間にか挨拶だけとか、人によっては挨拶すらしなくなり関わらない様にしていました。
私の両親や亡くなった祖父母は、近所付き合いは変わらず昔のままで、私だけです。
近所付き合いがあると、どうしても「近所のてまえ・・・」とか「近所の目が・・」とか、そんな事を気にするし、私の母は特に、そういうタイプでした。
しかも、近所付き合いがあるということは、もちろん会話をするわけですから、色んな町内の情報共有の広まりも早いんです。
そういうのが本当に煩わしく
「もう、人の家のことは関係ないでしょ、放っといて!」と、うっとうしくて仕方ありませんでした。
それが、40歳半ば過ぎくらいでしょうか・・・私も落ち着いたのか、少し拒絶感が減りました。
現在は、自然と二言三言のたわいもない会話をすることもあり、子供時代に戻ったかのように楽しんでる時もあります。
そして、最近(コロナが減っている頃)、子供の頃から知っている近所の90歳近いおばあさんが亡くなりました。
ご主人が入院中のため、一人暮らしです。
毎朝、同じ時間に雨戸を開けているそうなのですが、その日は昼近くなっても雨戸が開かず。
同じく昔から住んでいる隣の家の人が、その習慣を知っているので「この時期に出かけることは無いだろう・・おかしいのでは?」と気づき、警察へ相談されたそうです。
そしたら部屋の中で倒れており、救急車で運ばれたのですが残念ながら病院へ着く直前に息を引き取られたとのこと(コロナでは無い病気が原因)
その後、別の近所の70代前半の一人暮らしのおじさん(やはり子供の頃から知っている)が亡くなった時も、よく訪ねてくる近所の人が発見したのです。
「いつもなら自宅にいるはずの時間帯に呼んでも返事がない・・出かけたか?」と庭に回ってみたら、外出する時には窓のカーテンを閉めていくのに「開いている・・・?」と気づき、覗いたら倒れていたそうです。
発見した時は、すでに息は無く、前日の夜に亡くなっていた(コロナではなく病気が原因)と後で母から聞きました。
正直、こういう情報はどこから?と思いますし、それ以外にも「○○さんの所は・・」とか、近所付き合いが濃い目の母から「何で知ってるの?」という内容を耳にすることはあります。
個人情報の観点からすれば、いかがなものかと思います。
私が若い頃なら、それこそ「関係ないでしょ!」って反発してたに違いありません。
たしかに監視されていると受取れば、良い気分はしない。
でも、付き合いがあり、日頃から見ていたから「異変に気づけた」とも言える。
情報が近所に知れ渡るのも不信感を抱くけど、知っているから助け合うことや、大目にみてあげられること、防犯意識が高まることもある。
どちらが良いとは言えないし、私自身も年齢によって真逆の受取り方をしています。
また、明らかなトラブルメーカーがいれば関わりたくないのは当然だし、色んな人がいるから簡単に信用するのも怖い気がする・・・。
家は自分が休まる大切な場所ですから、その環境での人間関係に対しての考え方は強いものがあるし、個人差があるので本当に難しい問題だと思います。
正解は無いけれど・・・あまりにも希薄すぎるのはどうなんだろうか?
昔と今では、時代が違うから同じ様にいかないのが現実なんでしょうが、何だか、どんどん「人として」精神的に住みにくい世の中になっていく気がする・・・。
この歳になると、孤独死という言葉は他人事では無いけれど、それ以上に「無関心」に対する寂しさの方が大きいかな・・・。
こういう時に、本当に年齢を感じますね
・・・イイ意味で。
セラピーを受けることへの抵抗感・・・
私自身、セラピーを受けることへの抵抗感は強かったし、ハードルも高く、自分には無縁であり、全く必要ないぐらいに思っていました。
50年以上生きていれば、人に言われなくても、自分のことは自分がよく知っているし、「○○○の考え方より、もっと○○○のように考えた方がいい」と、私の考え方を叩き直すためにダメ出しばかりされるんじゃないか?
理想的な考え方が出来れば、自分がラクになれることは理解はしているし、イヤというほど変えようともしてきている。
それなのに元に戻ることを繰り返している私にとって「いまさら何の意味があるのか?」と必要性を感じませんでした。
また、セラピー自体が特別なもので、弱い人だけが受けるものだと思い込んでいましたから、人一倍、自分は弱くないと言い聞かせてきた私には、なおのこと関係ないものだと判断していたのです。
もともとセラピーも心療内科(メンタルクリニック)も全て同じようなものであり、自分とは無縁だと捉えているから調べることすらしてません。
私自身、心療内科(メンタルクリニック)は、行ったことありません。
私にとって、正直ハードルが少し高めに感じるのと、今はストレスが減ったので行く機会はないかなぁと思います。
ただ、あまりにもストレスで身体の不調が酷過ぎるのなら、最後の砦として受診していた可能性は高いでしょう。
私は、マインドフルネスを始めたことをキッカケに、そこから引き続きマインドフルネスを使ったハコミセラピーというものを受けています。
マインドフルネスを受けた理由はストレスもあるけど、その時は資格試験の記憶力・集中力UPが最大の目的です。
だから、ハコミセラピーまで受けることになるとは、全く予想していませんでした。
セラピストの術にハマったんじゃないの?と思われるかもしれませんが、それも完全にゼロだとは否定はしません。
ハマって後悔するのも、良かったと思うのも、全て自分が判断した上での結果だし、私が働いたお金で支払いするので、それくらいは自分で責任とれます(笑)
私がセラピーを受け続けてみようと決めた基準は、この人なら自分のこころの内を素直に言いやすいか?または言えるか?どうかです。
ある程度、会話を交わしていくと、その人が持っているなんとなくの雰囲気って感じますよね?
自分が個人的に話しやすいと思うのか、近寄りがたいと思うのか、苦手だと感じるのか・・・なんとなく合う、合わないが。
お世話になっているセラピストの人も、私にとっては合うと感じているけど、全ての人が合うとは限りません。
他の人が良いと言っているから、自分も合うとは限らない。
だから、違和感や、なんとなく合わない、噛み合わないと少しでも感じたらやめた方が良いでしょう。
こころに関係することだからこそ、すごーーーーく重要!
実際に、心療内科(メンタルクリニック)に行ったことは無いので、私が通っているマインドフルネス(ハコミセラピー)と何が違うのか?と聞かれても判りません。
※心療内科でもマインドフルネスを取りいれている所があるようです。
「セラピー」と名の付くものも色々な種類があると思います。
マインドフルネス(ハコミセラピー)のセラピー中は、日頃の出来事の愚痴が出る時もあります。
ですが、私の考え方を治すようなことはされず、自分で自分のことに気づくことをしているので、単純に視点のエクササイズをしている様な感じです。
結果、それにより自然と思考が自ら変わる。
自分自身の内側の気づきですから、変化した思考の内容は他の人とは違う部分も多いでしょう。
私が、これまでセラピーという名のものへの勝手な固定観念が変わりました。
自分が弱いからとか、強いからとかで、受ける受けないの判断基準にするのは、とても次元の浅い見方だったかな?と思えるのです。
実際に、受けてみた今では、セラピーに対しての抵抗感というハードルの高さの存在は、私の中で関係無くなったのでした (^_-)-☆
瞑想はストレス解消に良いと言うけれど・・・。
結論から言えば、たしかに良いですが、個人的に瞑想は簡単ではないと思います。
ストレス解消法の中に、瞑想は必ずと言っていいほど含まれていますよね。
私は瞑想(マインドフルネス)を始めて、2年以上経ちますが「この感覚だ!」とハッキリ感じられたのは1年後ぐらいです。
直接セラピストから指導を受けて現在に至っていますが、その前はマインドフルネスの本を購入してやっていました。
それ以前も「自己流」で瞑想をしてみましたが、それこそ2回位で辞めてます。
ストレス減るならと、ワラをもすがる想いで始めてみたとしても、そもそも「瞑想」とは、どんな状態で、どの様な感覚になるのか?何しろ初めてですから判らなくて当たり前だと思うんです。
取りあえず、やってみようと目を閉じて、あぐら?をかいて、それなりのスタイルで始めてみても、次から次へ雑念ばかりが浮かび、浮かんだものを消そうとすればいいのか、そのまま放置でいいのか・・・結局「あー、むずかしい」「瞑想は私にはムリ」と良さが判る前に辞めてしまう。
「自己流」瞑想➡本を相手に一人でマインドフルネス➡直接、セラピストから指導を受けてマインドフルネス。
この経験をしてみて「瞑想イイですよ」と言われても「そうか、なるほど~」と簡単に誰もが出来るとは限らないと痛感しました。
もちろん、中にはスムーズに器用に出来る人もいらっしゃるんでしょうが、私のようにストレス思考が強いタイプは、難しいと感じる人って少なくないと思います。
私が、今でも瞑想(マインドフルネス)を続けているのは、セラピストからのサポートのおかげで良さが判り、体感することができ、とても大きな効果が得らているからです。
瞑想にも色んな種類がありますが、ちなみに私がおこなっているマインドフルネスとは、仏教の瞑想法と異なり、宗教性を排除したメンタルトレーニングの要素だけを取りいれたものです。
私が直接、セラピストからの指導を受けた事で、何が良かったのか?
(前回のブログでも少し書いています)
判らないことは、その場で聞けるという安心感と、それによって自信をもって取り組める点が1番大きいです。
それに伴い、自分では出来ていると思っていても、実は指摘されて初めて「あっ、ホントだ。言われてみればその通り・・」と、気づかせてくれることです。
自分のこころに気づくトレーニングなのに、損得や善悪などを無意識に交えて理屈で答えを導き出す「根付いたクセ」が頻繁に現れてきます。
でも、自分では無意識なので気づかず、それが本当のこころだと思い込んでおり、区別がついていないんです。
だから、この状態で続けていたとしたら本当の効果は得られないままだったし、ストレス満載が継続中のため、きっとブログに書く内容も全然違っていたでしょうね(笑)
ストレス減らす為に、瞑想は効果があるという情報は知っているものの、するための方法が足りなかったり間違っていて効果を感じられず、よく分からないからと諦めてしまうのは、とても、とても勿体ないことだと思います。
もし、ストレス減らすことを心底目指していて、瞑想いいかも・・?って頭をかすめたのなら、実際に効果が得られる方法で試されることをおススメします!
自分を受け入れるって?
これ、できますか?
よく「自分を認めてあげる」「自分を受け入れる」と言う言葉を聞きます。
たしかに良い所も悪い所もすべてが自分そのものだから、ありのままを受け入れることで人生が生きやすくなることに繋がるのですが・・・。
言葉の意味としては分かるし「そうだろうなー」と、納得もするけど、果たして簡単に出来るでしょうか?
なぜかと言うと、私は最近ようやく出来る様になってきたからです。
今月で56歳・・・。
2年以上前、マインドフルネスを初めて受けた日にセラピストの人から「ありのままでイイんですよ」と言われました。
言われた瞬間、私の頭を巡ったのは、
(はっ?ありのまま?)
(ありのままでイイ?)
(ありのままって?)
だって、自分のイヤな部分、人に知られたくない・見られたくない部分、人としてどうなの?って考えてしまう自分がいることなど、変えたい所や消したい所は山ほど有るのにですよ。
それを、そのままでイイってこと?
(え?こんなんでイイの???イヤなんだけど、私は。)
その時の私には、正直ワケがわかりませんでした。
しばらくお互い沈黙が続いた後に、セラピストから
「この言葉を聞いて、今、何か感じたことはありますか?浮かんだことでもいいし、からだに感じたことでもいいし、何でもイイですよ」と声をかけられました。
私は、先ほど頭に浮かんだことを言ったら、きっと「ありのままとは、こうでああで、こういうふうに・・・・・・・・・」なんて「ありのまま」の説明をされるかもしれないし「50歳過ぎて、そんなこともわからないの?」みたいに思われるんじゃないかと一瞬考えてしまいました。
でも、せっかく受けに来たんだし、勇気を出して「ありのままって・・・意味がわからないです」と答えました。
すると「意味がわからないんですね。いいですよ、それで。」と、想定外の回答でした。
あまりにも意外だったのですが、それでも「あっ、いいんだ、それで、へぇー。」と何だか自分を認めてもらえたようでチョッと安心した記憶があります。
ですが、もともと私は何でも答えを求めたがる傾向があり、そのままにしておくとモヤモヤが残るので早く解決しスッキリしたい想いもありました。
とくに長くストレス抱えてると、自分でどうにかしようと思っても出来ない状態だから、何かしら答えが欲しい!答えをもらって少しでもラクになりたい気持ちもあるんですよね。
でも「こうした方が良い」という答えは無く、あくまでも「私がどう思うか、どう感じるか、どんな感覚なのか」だけです。
だから、色々な言葉をかけてもらうのですが、それに対して私がどう感じたかが大切であり、そこに気づくことが重要みたい。
私が答えた内容の良い・悪いは全く関係ないんです。
これはマインドフルネスに通い始めて、後で気づいた事ですが、私は頭で考えることばかりに相当偏っていたようで、怒り以外の感情は何十年と自動的に封印するクセがついていました。
そのため、とにかく最初の頃は、言葉をかけてもらっても「何も浮かばない」「わからない」「何も感じない」ことが多かったです。
それでも「それでイイですよ」と認めてくれるし、セラピスト自身の考えや世間の常識的な考えなどを押し付けることはせず、あくまでも私自身が気づくことをサポートしてくれていました。
損得関係なく、しがらみも外し、ありのままの私のこころに「気づく」ことの練習です。
唯一、こころでは無く理屈で考えて出した答えの時だけは指摘されましたが、それは私自身も、言われて気づくことで「あ!ホントだ」と判りました。
ここが、本を相手にひとりでマインドフルネスを試みてた頃との大きな違いです。
この気づきの積み重ねによって、そこから色んな方面へ「気づきの波及」がされていっているのを実感しています。
続けてきた間も「自分を認める・受け入れる」ことを意識しておこなっていたわけではなく、日々の気づきの延長線上として「こういうことだったのか!」と、たまたま気付いたような感じなのです。
人から言われたことではなく、自分自身の中から湧き出たものに気づくので、まさしく「これこそ腑に落ちる!」です。
「自分を認める・受け入れる」と聞いて、簡単に自分に取りこめる人はいいのですが、私にとっては、具体的な方法がわかりませんでした。
理屈で理解しているから、自分では出来ているつもりのようでも、本当の意味で受けいれられているかの確信までは、私には持てなかったでしょう。
今回、ようやく分かったのは「こういうことだ」と受け入れた瞬間に、からだの感覚が変わったからです。
こういう事って、実際に経験してみないと、正直、半信半疑だし、わからないと思います。
きっと、私ならそうですから(笑)
もし、私と似た様な方がいたら「自分を受け入れる・認めてあげる」のが出来るようになる方法として、マインドフルネスでの「気づき」の習慣が役に立つよ!って伝えたかったんです(^_-)-☆
自分の限界の「サイン」に気づく。
「マインドフルネスを習慣にしてよかった!」
今回、そのように改めて思ったのは、今月に入ってから凄く忙しかった日が続いたからです。
体力的には問題なかったのですが、とにかく頭がオーバーヒート状態でした💦
日頃、まったく使っていないわけではないけれど、普段と異なる頭の使い方をしてました。
仕事でも頭を使いますが、なれてくると、ある程度は自動的に働くようになるので、疲れたとしても取れるのは早いです。
でも、今回の頭の使い方は、記憶に無いほど久し振りだったのか、または全く使ったことがないのか・・・
どちらにしても、中々思うように頭が回らず、いったん出した答えなのに、しばらくすると「やっぱり、チョッと違うな・・」と、考え直す。
そんなことを繰り返しながら集中しておこなっているので、時間がたつのも早くアッ!という間に7月が終わってしまいました。
そのため、マインドフルネスをして頭を休めるようにしていたのですが、どうも許容量を超えたのか、何度か感情に変化が現れました。
全然ヤル気が起きないどころか、今までとは真逆のマイナス感情です。
「私には、このような頭を使うことは向いていないんじゃないか」
「投げだそうかな・・・」
「面倒くさい。ほんとイヤになっちゃう・・」
・・・と、浮かび始めます。
以前の私なら、その感情に体中が支配され、それでもやらなきゃいけないからイヤイヤながら強引にすすめる。
でも、結局は続かないので、最後の方は「ま、こんなんでいっか・・」と自分も認める妥協っぷり。
ですが、今回は違いました。
マイナス感情が浮かんでから、3~5分たつか、たたないくらいでしょうか・・・
早々とマインドフルネスでの「気づき」が登場してきました!
「あーーー、今、こういう感情があるな・・私。」
このように気づいた瞬間、マイナス感情を一歩ひいた感じで、冷静にみている「もう一人の私」がいます。
冷静になることで「今は、もう頭がいっぱいなんだ。今は、この件は辞めよう!このまま続けても望む結果は出ない。」と自分のボーダーラインに気づいたようです。
翌日、自分の気分に素直に目をむけてみて、やはり気分が上がっていない感じがするのなら、無理せず同じ頭の使い方をすることは一切しませんでした。
これが、ふしぎ・・・
その後、マイナス感情はどこへ行ってしまったのやら・・・自然とやる気が戻り、気分も上がっていました。
やはり、使い慣れない頭を使い過ぎたために、一時的な気の迷いのマイナス感情が出たんだな~と思います。
先月は、このような「やる」「やめる」「やる」「やめる」を繰り返し、ようやく一段落つきました。
社会で生きていれば、初めて取り組むことや、自分が得意では無いこと、好きでは無いこと、ここ一番頑張らなければいけないことなど自分に負荷がかかるものは、現実としてあります。
ただ、自分の限界やボーダーラインに気づかないと、それを超えて続けてしまい、挙句の果てに身体を壊し、心も病んでしまうんだろうなと改めて思いました。
日頃から自分を見ようとしていないから、感情の変化が現れても、それが仕事を進めるためにマイナスになるのなら「見ないふり」をして打消し、続ける為に都合のよい考え方を上書きして、あたかもそれが自分だと思い込んでいました。
色んな現実を考えれば、どうしても避けられないことはあります。
だからこそ、限界やボーダーラインを知ることは最終的に自分を守ることだし、一旦、休息をとれば再び良い結果をだせることも可能だと思います。
それらに気づくためには、まずは日常的に自分の身体や感情を、よーーーーーく見ておかないと分からないでしょう・・・。
私は、今回の件があって、マインドフルネスを習慣にしていたおかげで自分のボーダーラインのサインを改めて認識しました。
一段落した今では、新たな頭の使い方が出来たのは自分の経験として、本当に良かったと思えます。
今月、56歳!
まだまだイケるじゃん!
まだまだ成長できそう!
そんな気がしてます、わたし・・・。