我慢?
マインドフルネスに行き始めた頃、セラピストの人から「結構、我慢してるね」と言われた事が有ります。その時「えっ?我慢?イヤイヤ、言いたいこと言ってる方だと思うんだけど・・・。」と、自分では我慢している認識もなく、初めて言われた言葉でした。
でも、最近、マインドフルネスをしていて、その言葉の意味が分かった様な気がしました。1年半位経ってから、ようやくです。
それは、無意識な私の行動の癖の1つです。
「認められたい」
「褒められたい」
「評価されたい」
「相手から、どう思われるのかを考えて行動してしまう」・・・・
これって、大小関係なく、誰もが持っていると思うのです。特に社会人になれば、組織内で働くにせよ、個人で仕事をするにせよ、相手との関わりが存在しますから、必要な部分でも有ります。また、相手の立場に立って考えて行動することって大切だと思う。だから、何でも自分本位にすれば良いと言っているわけでは有りません。
肝心なのは「大小」と状況。つまり度合い。私の場合は「大」の方です。
殆ど自動的に、この意識が働いて行動してしまう。でも、無意識だから気付きません・・・・。何十年・・・恐らく小学生の子供時代の頃からでしょう。
思い出してみると「親の顔色や周りをうかがって、怒られない様にしてた」
これも、子供なら「あるある」かもしれませんが、生活の中で、これがどれ位の割合を占めているかどうか。
何だか、ズーッと、その意識で過ごしてきた様な・・・。
そんな事を思い出しました。
「私って、他の人の価値観に自分を合わせて生きてきた・・・ってこと?」
誰かに認められたい、評価されたい、褒められたいとかは、結局、その誰かの基準や好みによって、その誰かが認めたり、評価したり、褒めたりを下しているもの。
その誰かの想いを主として考え、それに見合うように自分が動く。
その中で、私の気持ちが満足するとしたら、結果として「認められたこと」「評価されたこと」「褒められたこと」
嬉しい気持ちは、もちろん有ります。
だけど「あれ?私の価値観は?」「ないがしろ?」
私の人生「評価される、認められる、褒められる・・それが嬉しい」
本当にこれだけを目標に、これからも生きて行くのか・・・・。
私の人生、私の価値観は二の次?
何だか、人の価値観を中心に生きている様に思えたのです。
じゃあ、「私の価値観は?」
何十年(半世紀近く)も、殆ど他の人の価値観に合わせて生きてきたの?
私のしたいこと、好きなこと、私の本当の気持ちは、何も無いかのように、無意識に無視して蓋をしていた・・・。
これは、誰かの為(例えば家族や大切な人)に自分を「犠牲」にして生きてきたとは、意味が違います。
根底は、あくまでも自分の為(人からの評価を得たいなど)なんです。
自分の為なんだけど、結局は自分の気持ちを無意識に我慢していたという事です。
生まれて初めて、何だか自分が可哀想になりました。
「そうか、本当は私は我慢してたんだ・・・」
チョッと涙も出てきました。
ここに来て、自分の心が疲れていることに、改めて気付きました。
だから、自分の感情にも鈍感になり、やりたいこと、好きなことも分からなかったのか。
しばらくして、自分に「もう、ここらへんで自分の価値観で生きていってもイイんじゃないか。そうじゃないと、可哀想すぎる・・・私。」と。
これからは、もっと自分の本当の感情や気持ちを重視していこう!と、何だか自分が単純に前向きになれる様な気がしてきました。
最近は自分の感情に気付く、留まる訓練のお蔭で、今まで素通りしていた景色や、言葉が違って見えたり、心に響く様なことも。アンテナの感度が少し良くなったのと方向が変わったのでしょうかね。
1年半位たって、ようやくセラピストの人が言ってた「我慢してる」って、こういうこと?確かに、相当我慢してきてる・・・自分としては繋がった感が有りました。
これは、なぜセラピストの人が、この様なことを言ったのかは、実際に聞いてみないと分かりません。その時には「そっか、そうなんだ・・」と言われただけ。今度、会った時に聞いてみよう。
これも何十年培った癖だから、正直、これからも幾度となく現れるでしょう。
現れた時に、出来る限り「あっ!また出た」と気付く訓練。それと「自分の気持ちや感情」にも焦点を当てて観察する新しい癖をプラスしていくように「そこは頑張ろう」と思います。
1度きりの人生の為に。